「客観性と主観性の使い分けはどこか? /「客観性の落とし穴」を読んだ。」に関しての考えをまとめました。
目次
「客観性の落とし穴」を読んだ。「何か面白い本はないかな~」とあてもなくフラフラしていると目についた本だ。目をとめたきっかけは、自分自身の潜在的違和感だった。「データってあるんですか?主観的では?」って表現は、時には適切だがそうとは言えないケースもあるだろうと最近思っていたからだ。
ざっくりと内容を記すが、自分の解釈で説明している部分も少なくないので作者の意図とずれている可能性もある。 詳細は本書を参照されたし。
目次
第1章 客観性が真理となった時代 1 客観性の誕生 2 測定と論理構造
第2章 社会と心の客観化 1 「モノ」化する社会 2 心の客観化 3 ここまでの議論をふりかえって
第3章 数字が支配する世界 1 私たちに身近な数字と競争 2 統計がもつ力
第4章 社会の役に立つことを強制される 1 経済的に役に立つことが価値になる社会 2 優生思想の流れ
第5章 経験を言葉にする 1 語りと経験 2 「生々しさ」とは何か
第6章 偶然とリズム――時間について 1 偶然を受け止める 2 交わらないリズム 3 変化のダイナミズム
第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学 1 経験の内側からの視点 2 現象学の倫理
第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景
この本が生まれた経緯
この投稿がきっかけで、出版社から声をかけてもらったとか。この本で伝えたかった事、そして僕がこの本で大切だとおもったことでもある。
村上靖彦 @yasuhikomurakam 学生のコメントカードに「それは客観的なのですか?」とか「客観的に見てみたいと思いました」というのがよくある。 こちらは「客観=真理というのが錯覚だ」、「量的研究も研究のセッティングで恣意的なのだからどっちが正しいとは言えない」と繰り返してるのだが、客観性信仰・統計信仰が根深い。
客観性が現代にこれほど重要視されるようになった経緯
もともとはデカルトなどの哲学者が発端だといわれている。哲学は、人生や事柄の根源や原理を理性によって追究しようとする考え方で、これを皮切りに論理的に追及して考える行為が広く知られるようになったそう。 その後、人々の行動や文化・活動に対して、「社会」という言葉を定義して定量的に科学した社会学・また心理学などもその一部である。そうやって分析や理論が重要視され、主観的な考えよりも、客観的なデータや文献が求められるようになったという。個人的にはインターネットの普及により、情報のアクセスが容易になったこともその一助になっている気もする。
客観性も大事だけど、主観性も大事だよね
この本で最もしっくり来たのが最後の章だった。ざっくり伝えると、「客観性はもちろん大事だけど、それと同じように主観的な表現も大事だよね」という内容。
最近は、SNSによる個人による発信もあり、「誰が言っているか」に価値を置いている人も増えているように見える。ただ、僕の知っているインターネットでは、個人の意見は意味がなくデータや定量性が求められることばかりだった。僕自身が主観的な表現におびえてしまい、回りくどい表現になっていることもあった。そのためこの主張には少し救われた。
村上靖彦 @yasuhikomurakam 『客観性の落とし穴』も客観性と数値化の批判が目的ではなく、一般化や計量ではない考え方によって見えるもの救われるものがあるということがねらいだったと確認する。
書評などを読み気になった文章の引用と簡単な感想
本書によれば「客観性」とは、たかだか19世紀に生まれた考え方であるにもかかわらず、昨今では「客観的=恒久の真理」であるかのように考えられるようになりました。
ひとびとが、個別・具体的な経験を行い、そこに意味を見いだすプロセスを観察し、くみ取る機会を「喪失」させてしまう
主観を排した結果、独創的なアイデアが生まれない「グライダー人間」(思考の整理学)を読んでいたからか、納得
そうではなく、物事を理解していくときには、「ひとびとを俯瞰するような客観的な知」と、ひとびとの個別具体的な経験の意味をさぐる知」の両方が必要で、それらは補い合う関係にある、のだということだと思います。まったく同感です。
今は客観性のある知識偏向型だけど、主観的な経験も大事だよねということ。知致とかは主観経験についての重要性を説いている
この言葉が発された背景は、学生たちの多くが「客観的=いい・高級」「主観的=だめ・低級」という安易な二分法に、すぐに思考が落ちていくことを残念に思っていたことです。一教師の力量不足により「無念」至極です。
抽象化することは物事の本質を見失ったり、誤解する可能性を秘めているということ